ひぐらしPCに向かいて

日々のあれこれを綴ってみます

■大きいサヨナラ

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本日午前中は退院後の検査で、外来受診をしてきました。

 

検査待ちの間に

「有頂天家族」森見登美彦 幻冬舎文庫 を再々読していました。

 

重篤と分かる患者さんが

ストレッチャーで検査室に入っていかれました。

この1か月の間に起きた様々なことが頭をよぎります。

 

文庫本に目を落としたら

偶然にも(必然だったのか)こんな文章が。

 

『生きてゆくかぎり、サヨナラという出来事と袂を分かつことはできない。

 それは人間であろうと天狗であろうと、狸であろうと同じことだ。

 サヨナラには色々なものがある。哀しいサヨナラもあろうし、ときにはありがたくてせいせいするサヨナラもあろう。盛大な送別の宴にて賑やかにサヨナラする者もあれば、誰に見送られることもなく一人でサヨナラする者もある。長いサヨナラがあり、短いサヨナラがある。いったんサヨナラした者が、照れくさそうにひょっこり帰ってくるのはよくあることだ。そうかと思えば、短いサヨナラのように見せかけて、なかなか帰ってこぬ者もある。そして二度と戻ってこない、生涯にただ一度の本当のサヨナラもある。

 生まれたばかりの私がぽてぽてと糺の森を歩きだしたとき、父は短いサヨナラをしていた。わが父下鴨総一郎は、狸界を束ねる大狸だったので、たいへん多忙であった。父はしきりに出かけ、母と子の待つ森にサヨナラをした。そういう具合であったから、あの冬に父が忘年会の狸鍋になってこの世にサヨナラをしたのだと知ったとき、我々はそれが本当のサヨナラであることを呑みこむのに骨を折った。

 この世にサヨナラするにあたり、我らの父は偉大なるその血を、律儀に四つに分けた。

 長兄は責任感だけを受け継ぎ、次兄は暢気な性格だけを受け継ぎ、弟は純真さだけを受け継ぎ、私は阿呆ぶりだけを受け継いだ。てんでバラバラの兄弟をつなぎとめているのは海よりも深い母の愛と、偉大なる父とのサヨナラである。

 一つの大きなサヨナラが、遺された者たちをつなぐこともある。』 

「有頂天家族」森見登美彦 原文

 

待合室で泣きました。

 

この1週間、ずっと、心ここにあらずでした。

ガスを消したか不安になり仕事を早退して急いで帰宅したり、

エレベーターに乗って階数ボタンを押さずにボーっとしたり、

アボカドの皮を先に剥いてしまい、種を取るのに身がぐちゃぐちゃになったり…

 

「一つの大きなサヨナラが、

遺された者たちをつなぐこともある。」

 

そうだね。

ありがとう。

 

 

MRI検査後

イケメン主治医の問診に。

何も問題はないとのことでした。

「京都旅行はどうでした?」と聞かれましたが

『温泉+生ビール(大)→鞍馬山』のことは黙っておきました。

 

先生「何もなければ1年後に検査に来てください。」

「はい。」と答えながら

今の私にとって1年後がすぐなのか、ずっと先のことなのか

判断がつきませんでした。